1951-11-30 第12回国会 参議院 内閣委員会 第23号
それから第一国会が始まりまして今日までの間において二十二年度には驚くなかれ百十三作つて、二十三年度百二十四作つておる、二十四年度百二十四作つておる、二十五年度百二十一作つておる、從つて終戰後今日までに我が国が作つたというものは明治の憲法が始まつてから終戰に至るところの八百八十の法律を遥かにオーバーしておるのですよ、五百七十二件作つているのです。
それから第一国会が始まりまして今日までの間において二十二年度には驚くなかれ百十三作つて、二十三年度百二十四作つておる、二十四年度百二十四作つておる、二十五年度百二十一作つておる、從つて終戰後今日までに我が国が作つたというものは明治の憲法が始まつてから終戰に至るところの八百八十の法律を遥かにオーバーしておるのですよ、五百七十二件作つているのです。
從つて終戰後当然民主化の基盤であるところのこの教育を本当に守り通そうと考え、而もその信念において行動しようとする教員諸君であつたならば、私は職場を守るというその線においても又黙つて見ていることができない、必ずこの職場におけるところのいろいろな自主的に要求を取上げ、子供の問題を取上げ、父兄の問題を取上げて、そうして日本の民族の將來の問題を取上げて、当然これが一つの自分の教育活動の中におけるところの熱意
〔委員長退席、鍛冶委員長代理着席〕 從つて終戰後における百億何がしの八月中の膨脹は、政府の支出の原因というよりも、民間資金の需要が厖大であつて、日本銀行の貸出しの増加ということがより大きい原因であつたということが、当時よく見た計数において私は記憶しております。もし臨軍費の支出がなかつたらもつと通貨は減つておつただろう、こういうことになると思います。
それから又彼らの生活は、戰爭一本に歪められて参りまして、言わば青春を奪われ、或いは青春を掠奪されたような形で、実に蝕まれたところの生活状態で今日まで参つた、從つて、終戰後、彼らは非常な虚脱に陷つて、そうして尚その虚脱の中から一つの光を求めて学業を継続しようと、こういうふうに考えて、いろいろな努力をやつておるのでありますけれども、この前も申上げましたように、学生生活の崩壞、並びに学生諸君の立つておるところの
從つて終戰後の旧軍人、軍属の中で、死んだりあるいはけがしたり、病氣になつたものにつきましては、これの恩給というものはこの連合軍指令に直接関係はないのではないか。すなわちこの指令の対象外であるというようにも考えられるのであります。
そうすると、それ以外にいろいろと金銭を辻氏からもらつておる、それは從つて終戰後にもらつておつたものと解釈してよろしうございますか。
從つて終戰後ずつと赤字經營を續家ておつたのであります。一時は行き詰まるかと思われたのでありますが、自動車工業というものが日本に殘されました最後の總合工業というふうに、殘された最大の總合工業というふうに我々としては考えておりまして、この大きな總合工業をなんとか維持して行きたいという大方の希望がございまして、政府の方針も大體そういうことであつたと思うのであります。